目次
ジョーカー2フォリ・ア・ドゥあらすじ考察&感想(ネタバレ注意)!衝撃の最後からダークナイトへの伏線!
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以下、画像はバットマン© 映画ジョーカー©より一部引用して考察します。
ネタバレを含ますので、ご注意ください!
また、私見や感想もたくさん含まれています。
まずは前作のあらすじから。
1前作までのあらすじ。優しい青年だったジョーカー。アーサー・フレック
画像が、ジョーカーの主人公となるアーサー・フレック。
これがジョーカーの本名であり、年齢は30代~40代。
見たところは、かなり年老いているようにも思えます。
彼は売れないコメディアンであり、生活費を稼ぐために普段はピエロの格好をして広告をしたりしています。
しかし、路上でパフォーマンスをしていたら、悪ガキに看板を奪われ、罠にはめられてボコボコにされる・・・という悲惨な目に・・・。
それでも、アーサーは笑います。
アーサーは精神病を患っており、さらに神経性の病気から、発作的に笑ってしまうのです。
その持病のため、周囲からは気味悪がられて、避けられることも。。。
それでも、アーサーは病床にふせっている母親の看病をけなげに行い、
「人々を笑顔にしたい。だからコメディアンをやるんだ」
と一生懸命に生きていました。
2友人にもらった銃。そして失業と苦悩
解雇されて絶望していたアーサーは、帰りの電車内で3人の男が女性に絡んでいるのを目撃します。最初はただ見ているだけでしたが、その瞬間に持病の笑いの発作が起こり、アーサーは大笑いを始めてしまいます。
「何がそんなにおかしいんだ?」と、今度は男たちがアーサーに絡み始め、暴行を受けることになります。
とっさに護身用に渡されていた拳銃を使い、アーサーは彼らを撃ちます。しかし、普通なら恐怖に包まれるはずの場面で、アーサーの内に潜む狂気が表面化し、彼は最後の一人まで執拗に追いかけて撃ち続けます。
3人を射った後、アーサーは我に返り、必死にその場を逃げ出します。そして、逃げ込んだトイレの中で踊り始めます。
その時、アーサーの発作は収まり、彼は初めて味わう解放感に浸っていたのです。
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3トーマス・ウェインとの確執と妄想と現実のはざま。
今作では、まさかのトーマス・ウェイン(バッドマンの父親)も登場します。
アーサーが始末した3人は、実はウェイン産業のエリート証券マンでした。
世間では「金持ちを倒した義賊のピエロ」としてアーサーを称賛する声が沸き起こり、格差に苦しむ民衆は、金持ちへの憎しみをアーサーに投影していたのです。
そんな社会の反応をよそに、アーサーはコメディアンとして初めてステージに立ちます。発作に悩まされながらも、なんとかステージをやり遂げます。
その後、観客の一人がアーサーのパフォーマンスを、人気司会者マーレーの番組に投稿し、アーサーは一気に注目を浴びることになります。しかし、ここから再びアーサーに悲劇が訪れます。
帰宅したアーサーは、母親がトーマス・ウェインに宛てて書いた手紙を偶然目にします。その手紙には、「アーサーは実はウェインとアーサーの母ペニーとの間に生まれた隠し子である」という衝撃的な内容が記されており、ウェインに二人を助けてほしいと訴えていたのです。
真実を確かめるために、アーサーはトーマス・ウェインに会いに行くことを決意します。
トーマス・ウェインは、ご存知、後のバットマンであるブルース・ウェインの父親です。
この時、ブルースはまだ少年として描かれています。
本当に、アーサーはトーマス・ウェインの息子なのか?
そうなると、バットマンとジョーカーは腹違いの兄弟ということに?
アーサーの母親の説明によれば、彼女がまだトーマス・ウェインの屋敷でお手伝いとして働いていた頃、トーマスに見初められ、二人の間に子ども(アーサー)ができたという話でした。しかし、トーマスは身分の違いを嫌い、母親とお腹の子どもを見捨てたというのです。
アーサーは、真実を確かめるためにトーマスを待ち伏せし、問いただします。
「なぜ、自分と母親を助けてくれないのか?あなたは、僕の父親のはずだ!」と。
しかし、トーマスは冷酷に「それはすべてお前の母親の妄想だ」と突き放します。
アーサーは、これまでずっと母親を信じ、トーマスが自分の実の父親であり、やっと頼れる存在を見つけたと思っていたのです。
そんな彼にとって、トーマスの言葉は衝撃的であり、絶望的なものでした。
「すべては妄想だったのか?」という疑念が頭をよぎり、彼の世界が揺らぎます。
ここに、映画『ジョーカー』の核心的なテーマが描かれています。
何が真実で、何が幻想なのか?アーサーは自分の居場所やアイデンティティを探し求めていたはずが、それすらも幻に終わるという悲劇が、彼をさらなる狂気へと導いていくのです。
ちなみにこのテーマこそが、ジョーカー2で描かれたもので、だからこそ最後は衝撃の結末となったのです。
4信じていたものすべてに裏切られたアーサー。過去の真実とジョーカーの覚醒。
アーサーは、母親の言葉を信じてトーマス・ウェインに会いに行きましたが、冷たく拒絶され、さらに3人の証券マンの件で警察の捜査対象になっていることを知ります。
追い詰められていく中、母親も倒れて入院し、アーサーはどうすればいいのかわからなくなっていました。
彼は、母親の言葉が本当かどうかを確かめるため、かつて母親が入院していた精神病院に忍び込み、彼女のカルテを盗み出します。
そこに記されていたのは、彼をさらなる絶望に突き落とす残酷な真実でした。
カルテにはこう書かれていました。
- 「母親ペニーは妄想に囚われており、アーサーは実の子ではなく養子である」
- 「アーサーは幼少期に母親の恋人から虐待を受け、それが原因で発作的に笑う病気を患った」
- 「虐待されていた当時、母親ペニーはアーサーを守らなかった」
つまり、アーサーはトーマス・ウェインの子どもではなく、ペニーが養子として引き取った子だったのです。
トーマス・ウェインの「すべては妄想だ」という言葉が正しかったことを悟り、アーサーは衝撃を受けます。
そして、愛する母親にさえ裏切られたアーサーは、自らその手にかけ、そして、ついにジョーカーへと覚醒したのです。
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5怒りと憎しみのジョーカー
本作で一番好きなシーン。ランドルの命を奪った後に、マレーのトークショーに行くために出かけるジョーカー。
もう自分を止めるものも、抑圧するものもない。
この人生は悲劇ではなく、喜劇。
「この人生に高価(硬貨)な死を望む」
自由に感情のままに行動し、踊り狂います。
6ジョーカーエンディングとラストの伏線
マレーのトークショーへやってきたジョーカー。
ずっと出演をあこがれていた番組です。
本来であれば、コメディアンとして世界に羽ばたく最高のチャンス。
しかし、ジョーカーの心にはもはやそんな気持ちはなくなっていました。
マレーに呼ばれ、トークショーが始まった後、彼は以前のように委縮した姿ではなく、堂々とふるまいます。
そして、「僕がすべての事件の犯人だ」と告白するのです。
ショックを受ける番組スタッフや視聴者たち。
テレビ界の権威にして、アーサーがずっとあこがれていた大物司会者マレー。
しかし、マレーはアーサーの出演した舞台をあざ笑い、その無様な姿をさらして笑いにする、という最低の行為をしました。
大好きで信じていた人物に裏切られていたアーサー。
彼はジョーカーとなり、マレーに言います。
「僕は何も信じない。僕にはもう失うものはない。傷つける者もいない。僕の人生は喜劇だ。」
「ずっと思っていた人生は悲劇だって。だが、すべては主観なんだ。自分で自分を認めればいい」
「この世界は誰も他人のことを気にかけない。社会に見捨てられたんだ。ゴミみたいに。」
「あんた(マレー)は最低だ。この番組に僕を呼んだ。笑いものにするために。」
「すべての事件は「最低」だからやった。報いを受けろ!」
アーサーは、自分を犯人として最低の人間呼ばわりするマレーこそが本当に最低の人間なのだと、激情のままにマレーに発砲します。
この社会は弱いものが虐げられ、それが当然にされている最低の世界だ、とこれまでの自分の人生のすべての怒りと憎しみをぶつけたのです。
ここに、これまでのジョーカー像を壊すものがあります。
当然、アーサーは逮捕されますが、警察署に向かう途中で、ジョーカーの行為に触発された暴徒がパトカーを襲撃し、さらに町を燃やしていきます。
ジョーカーは不満を持った民衆の星として、リーダーとして祭り上げられ、彼もまたその期待に応えるかのように、燃え盛る町の中心で不敵に笑い、しかし涙を流しながら、踊るのです。
伏線として、トーマス・ウェインがジョーカーに触発された暴徒によって命を奪われ、ブルース・ウェイン一人が残されるという、バットマンにつながる部分が描かれています。
ここから、バットマンビギンズを見ると、その後に孤児となったブルースがバットマンに覚醒する場面につながり、ダークナイトのジョーカーとの対決も違った視点で見れると思います。
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ジョーカー2ストーリー考察(ネタバレ注意)
ここから、ジョーカー2フォリアドゥのあらすじと感想になります。
ジョーカー2は、多くが妄想的?ミュージカル調ですので、核心のみあらすじをさっと書きます。
前作から2年後、アーカム州立病院の患者となったアーサーは塀の中でした。
彼は裁判にかけられます。
同時に人々は悪のカリスマ「ジョーカー」の誕生に、熱狂し、彼を解放しようと運動を始めます。
そんな中、狂気に踊り、自由に生きる姿に感銘を受けた女性が一人・・・。
それが、レディガガが演じるハーレイ・“リー”・クインゼルでした。
彼女はアーカム州立病院の音楽療法士でしたが、路上のテレビでジョーカーを知り、彼の狂気とむき出しの感情こそが自分の求めるものだと信望したのです。
大卒で、ある意味恵まれて育ちながらも、鬱屈した不自由さを抱えていたハーレイ。
彼女は狂信的にアーサーを信奉します。
そして、アーサーもまた、彼女の愛こそ、自分の欲するものだと感じ、二人は、熱烈に愛し合います(子供もできます)。
ただ、ここで私が思い描いていたジョーカー像とは、「ん?違うぞ?」が飛び出てきます。
私は、アーサーが映画ダークナイトに描かれていたかのジョーカーに生まれ変わると思っていたので、アーサーは段々と狂気に飲まれ、そして、完全に悪となり、自由となる。
要は、誰にも頼らない自立性を持っていく・・・・と思っていました。
しかし、ここから描かれるのは、むしろ、ハーレイ・“リー”・クインゼルに執着し、彼女に嫌われまいと足掻き、自分の妄想に浸り、しかし、拡大していく狂気に怯える、前作の序盤と変わらない「アーサー」という弱い人間そのものだったのです。
ですが、これが最後につながる伏線になっていました。
どんどん熱狂していく、ハーレイとそして群衆たち。
アーサーは、段々と自分の姿とは離れた「ジョーカー」という存在に怯え始めますが、民衆の求める舞台の上でジョーカーを演じ続けます。
求められるままメイクをして、裁判に出席するアーサー。
それは、かつてのコメディアンとして求めていた「熱狂」があったから・・・。
しかし、それは、同時に彼が本当に求めていた「アーサー」という自分自身を見て笑ってほしいという願いとはかけ離れていたのです。。。
ジョーカー1のあらすじ↑にも書きましたが、アーサーの願いはもともと「人々を笑顔にしたい。だからコメディアンをやるんだ」というものでした。
まず、その前提が今の状況とは違っている上に、母親に求めていた愛や真実とは違っても、父親(トーマス・ウェイン)に求めていた庇護も、本当は自分自身に向けてほしかったのに、
今は熱狂的な民衆も、最愛のハーレイさえも、求めているのは彼らが作り出した肥大化した「ジョーカー」であり、「アーサー」ではなかったのです。
ハーレイとの熱狂的な愛も、妄想的なミュージカルさえも、その視点で見ていくと、実にむなしい、空虚な演出であると分かります。
一見して、華やかで、美しく、そして、周りに認められたカリスマ。
しかし、内実は、どこまでいっても、誰も自分を見てくれない、アーサーを理解しようともせずに、理想を押し付けてくるだけ。
愛して愛して、真実の愛だと思っているハーレイさえも、(実際、妄想のミュージカルは愛を歌う)、実際に愛しているのは、ジョーカーであってアーサーではない・・・。
ジョーカー2の感想で、かなりの酷評があって、「求めていたのはこれじゃない!」とかなり低評価がついていましたが、
それは、まさに我々観客こそが、アーサーを苦しめていた群衆そのものであり、
自分こそが、期待する通りの、自由で狂暴で自立した「ジョーカー」像を押し付けていた張本人だった・・・という演出だと分かり、後から鳥肌が立ちました。
してやられた・・・、と観客に問いかけて、リアルに納得させられる展開は久々かも。
結局、弁護士をクビにして裁判に負けるアーサー。
裁判所は爆破され、そして、再び収容されることになります。
しかし、最後に衝撃のラストが待っていました・・・。
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ジョーカー2エンディングとダークナイトへの伏線
今作で一番好きだったのは、ジョーカーとハーレイのたばこを吸うシーン。
けだるさの中にそれぞれの想いの交錯がたばこを通じて描かれていたような、そんな気がしました。
伝播していくジョーカーの狂気。
アーサーの妄想から始まったジョーカーは、もはや手に負えないほどに拡大し、副題のフォリアドゥの通り、ハーレイという狂信的な信奉者を媒介に、もはや「アーサー」の手に負えないものになっていました。
「Folie à Deux(フォリ・ア・ドゥ)」とはフランス語で「2人狂い」を意味し、妄想を持った人物Aと、親密な結びつきのある健常者Bが、あまり外界から影響を受けずに共に過ごすことで、AからBへ、もしくはそれ以上の複数の人々へと妄想が共有されることを意味する。
そんな中にアーサーは叫びます。
「ジョーカーなんて存在しない」
結局、ハーレイや民衆が求めている、「ジョーカー」という存在は、彼等の妄想であり、否定され続けたアーサーの妄想であり、ただ、皆が欲望をおしつけただけの存在でしかない。
つまり、実存していない。
そして、きっとアーサーは自分を見てくれ!アーサーを愛してくれ!と言いたかった。
しかし、結局、そこにあったのは、自分勝手な理想の押し付けでしかなかったのです・・・。
自分を、アーサーを心から愛してくれていると思っていたハーレイですら、彼女が求めていたのは、「強者」であるジョーカーであり、弱者であるアーサーではなかったのです。
全てがむなしくなったアーサー・・・。
結果、身勝手な愛を押し付けていただけのハーレイも彼の元を去り、
さらにそんな彼を最後に悲劇が襲います。
唐突に収容場で刺されるアーサー。
倒れて息を引き取る彼の背後で、ぐちゅぐちゅと音がしていて、そこにいた犯人は、おそらく自分の頬をナイフで切っています。
フォリアドゥ。狂気の伝播は、最後にアーサー自身の命すら奪い、そして、新しくその「理想」を受け継いで誕生したモンスター。
犯人は、ちょくちょくカットに入ってくる人物かとは思っていましたが、最後にまさか・・・。
これが、おそらく、ダークナイトに描かれた冷酷無比なジョーカーへとつながるのだと思われます。
実際に頬を切っているダークナイトのジョーカー。本作のエンディングからつながると考察できます。
彼もまたアーサーの妄想に影響を受けた熱狂的な信奉者の一人だったのかもしれません。
狂気は伝播していく・・・。
こうして、弱く、愛を求めて苦しみ、最後は自分の生み出した狂気によって命を落としたアーサーから、彼の妄想が生んだ真のモンスター「ジョーカー」が誕生したのです。
この続きは、ダークナイトへ。。。
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ジョーカー2感想
評価は正直、別れる作品だと思います。
最初の私のように、ダークナイトのジョーカーを求めていた観客は、「なんだこれ・・・ただの弱いおじさんの妄想じゃん」で終わるでしょう。
しかし、ジョーカーを見て、アーサーという人間を見ようと思って鑑賞すると、
もともと弱く、優しく、「皆を笑わせるコメディアンになりたい」と願っていた純粋な男の、期待や求める愛がことごとく裏切られ、絶望し、一時的な狂気が妄想の中で膨らみ、民衆に伝播して恐ろしくなっていく姿を描いた名作だと思います。
これは、ダークナイトにつながると考えれば、ジョーカーという存在は、もともと一人ではなく、このアーサーが生み出した幻想から始まって伝播した、という展開で納得いくものでしたし、ジョーカー1でブルースウェインが出てきたことからも、今後バットマンと戦うジョーカーにつながる伏線もよかったかなと思います。
しかし、なんともいえないむなしさを感じるのも事実で・・・。
期待される自分とのギャップに苦しむ、というのはよくわかる気もします。
アーサーは、もうこの世界に疲れ果てたのかもしれません。
そういう意味で、最後の最後に、アーサーが感じていた世界への「真の絶望」が描かれたのかなと。
ほとんどが、ミュージカル調だったのも、ハーレイに振り回されながらも、この世界から逃げたいという、理想の世界に生きたいという想いの描写であり、
同時に、最後にリーに対して、「もう歌うのをやめて、話そう」と語ったところを見ると、ジョーカーという理想像はまさにハーレイの思い描くミュージカルという舞台でしかなく、同時にそれは、アーサーにとっても、観客にとっても、「退屈」なものであり、アーサーはそれを嫌悪していたのだと思います。
彼の求める妄想は、悪のカリスマ「ジョーカー」を求める群衆(我々観客)には退屈で、無意味で、そして、つまらないもの・・・。
そのギャップがアーサーを苦しめ、最後の結末になりました。
正直、「してやられた感」。
我々、観客もまたジョーカー1から巻き込まれた大衆だったんですね。
そんなアーサーを愛し、同時に理想を押し付けて苦しめたハーレイ。
なんでレディガガ?と思っていましたが、ここまでミュージカルなら、納得。
最初のカートゥーンのシーンから、期待マックスで、そこから大きく期待を裏切り、最後に、真の狂気のジョーカーの誕生につなげる・・・。
不幸な人々は、さらなる不幸な人々を求め、狂気を求め、生贄を求める。
アーサーは終始やっぱりアーサーで、個人的に、ジョーカー1の「優しいアーサー」が好きだったので、狂気におぼれるダークナイトのジョーカーとのギャップに違和感があり、だからこそ、この結末には納得です。
「That’s Life」
これが人生だ。
最後の最後まで、弱く、優しく、愛を求め続けたアーサーという男の終幕は、狂気とは別れを告げてみじめに終わりましたが、アーサーとしてはこれが良かったのかもしれません。
「強い」ジョーカーを求めていた信奉者と、「弱い」自分を認めてほしかったアーサー。
そして、最終的にアーサーは弱い自分を選択し、強い理想像を放棄しました。
観客やリーは、そんな彼の姿に絶望し、「つまらない」と吐き捨てて、去ります。
本当にアーサーが求めていたのは、彼の優しさを理解してくれたゲイリー・パドルズと慕っていてくれた若い囚人だったのです。
(ただ、自分の理想を押し付けるだけの男性女性・・・というのは、我々現代人にもつながる部分ではないでしょうか)。
前作で感じていた「優しいアーサー」とダークナイトで見た冷酷無比なジョーカーとのギャップが最後に解消され、だからこそ、ダークナイトのジョーカーはあそこまで冷酷無比に「狂気」に全振りだったのだと納得できました。
そして、私個人としては、1で見ていた優しいアーサーが「弱くても優しい」を選択したこと、狂気と偽りの強さを放棄した姿こそ、この映画の主題として納得できるものでした。
つまり、ジョーカー2は、ジョーカーそのものを否定することのできた男の物語だったのです。
それにしても、ホアキンのまさに命を削る演技が最高でしたね!
ヒース・レジャーがあの後悲しいことになったので、身を削る演技はかなり心配ですが。。。
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ジョーカーのオリジナルとの違いとエンディング後について解説
バットマン1989でジャック・ニコルソンが演じたジョーカーはマフィアの有力者であるカール・グリソムの右腕ジャック・ネイピアであり、その後に狂気に落ちますが、そもそもが悪。それも欲に忠実な俗物的な悪。
ダークナイトでヒース・レジャーが演じたジョーカーは、その本名も正体もまったく記録にない人物であり、彼の目的は怒りでも憎しみでもなく、「人間の本質が悪であることの証明」。
もっと言えば、より子供っぽい純粋に人間性と世界の「破壊」を楽しむ純粋悪。
これが、おそらくこのジョーカー2のエンディングからつながるジョーカー。
考えてみれば、ダークナイトのジョーカーには、ハーレイクインは登場しませんでしたね。
それはこのジョーカー2で、ハーレイが彼を見限って、同時にダークナイトのジョーカーは狂気の権化として、ハーレイを全く求めなかったからなのかもしれません。
スーサイド・スクワッドでジャレッド・レトが演じたジョーカーは、ギャングのボスであり、こちらも俗物的な悪。
ハーレイクインのために命をかけたり、狂気的だけど、どことなく正義感があったり、どちらかというと、頭が良いギャング、という感じでした。
このうち、初代とスーサイドのジョーカーは化学薬品工場で髪を緑にして、肌が白くなったという演出でオリジナルと同じ。
今作とダークナイトのジョーカーは、自らメイクで髪と肌の色を変えている、という違いもあります。こう考えると、やはり今作のジョーカーがダークナイトにつながる、と考えるのがしっくりきます(髪型なども考えると制作陣も意識している)。
彼らを同一人物としてみるか、それとも、ジョーカーというのは固有代名詞であって、中身は変わっている、とみるのか。によっても楽しめそうです。
ちなみにオリジンの”Batman: The Killing Joke”は、もともと妊娠した妻を抱える売れないコメディアンであり、妻と胎児の不慮の死と化学薬品でただれた真っ白な皮膚、緑の髪の毛を見たことで、狂ってしまった存在がジョーカーとなっています。
今作のジョーカーはひたすらに弱者として描かれており、テーマは虐げられた弱者が世界に怒りをぶつける、というもの。
悪のカリスマとしての高揚感はなかったけれど、
映画館を出たときに、にやにやしてしまう人や、逆に落ち込む人、面白かったという人、つまらなかったと言う人など様々でしたが、これもいい映画の条件のような気がします。
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